自己紹介

自分の写真
豊後高田市, 大分県, Japan
アメリカ人である両親を持ちながら、日本の片田舎で生まれ育ち、自分はどこに属するのか、国籍とはなにか、国とは何か、どうしたら世界の平和は訪れるのかと幼い頃から考えてきました。もちろん、答えにはたどり着いていないのですが、自らが考えることや思うことを言葉にしたり、文章にしたり、時に対話する場をつくったりすることでより良い社会の実現を目指しています。

2013年10月23日水曜日

屋久島


屋久島と言えば、「世界遺産」であることをまず思い浮かべるだろう。ぼくもそうだ。
今回、初めて屋久島に足を踏み入れた。一日目はフェリーの欠航で、火山灰が降る鹿児島市にもう1泊。翌日、条件付き(波が高ければ港に戻る)で出港したフェリーはファンタジー映画にでもでてきそうな火山島(硫黄島)を横切りながら、屋久島に入港した。屋久島は世界で最も降水量の多い場所のひとつだ。だから、晴れ間は期待しないことにした。

ぼくが住む国東半島に形も大きさも良く似た屋久島は周囲135キロ。車があれば、海岸線をぐるっと1周できる。国東半島の最高峰は両子山720メートル。屋久島の最高峰は宮之浦岳1936メートル。九州で1〜7番目までの標高をほこる山々がこの小さな島にあると言うからびっくり。冬になれば、標高の高いところでは雪が1メートル積もることもある。更に集落が点在する海沿いは南の島らしく、ブーゲンビリアやヘゴの木なんかも見られる。今回は3日しかなかったので白谷雲水峡、ヤクスギランド、そして宮之浦岳を訪れることにしていた。

屋久島の森は本当にもののけの森だった。ぼくのカメラではその圧倒的な存在感を写し出すことはむずかしい。「杉」と言えば今では荒れた森の代名詞のようになってしまったが、杉の本来の姿を見させてもらった気がした。神社やお寺で見るようなたくましい杉がモミやツガなどの大木と共に根深く、空高くそびえ立っていた。


屋久杉は江戸時代から本格的な伐採がはじまったそうだ。
島は屋久杉を販売することで得た恩恵も大きいが、失ったものは更に大きいのかもしれない。ただ、こうして現在を生きるぼくがまだ屋久島の森に入って感動できるのも、70年代くらいから急ピッチで行われた保全活動があったからこそなのだと思う。


屋久島は世界遺産だが、きっと地球上のどの場所も世界遺産であったことを忘れてはいけない。過剰な都市化や産業化に罪を着せることは簡単だが、それらが起きた時には起きた時の事情と現実がある。だからこそ、失われたものに憂うだけでなく、再生できるものに希望を見いだすことを心に刻みたい。
ぼくたちが、「今」に責任をもつことで、世界の遺産は過去のものでなく、これからのものになっていくのだと思う。



宮之浦岳ではまさかの晴天に恵まれ、ウキウキ気分で下山した。
途中、あまりの美しさに我慢できず川に飛び込んだ。冷たい!そして、なんだか嬉しい。




2013年10月7日月曜日

お話会

昨日、沖縄から九州へ帰ってきた。台風がさったかと思えば、もうひとつ大きいのがきている。ただ「台風がさった」とは言っても、さった台風は今中国にたどり着き、大きな被害を及ぼしている。自然は時に猛威をふるうが、国境など存在しないことを教えてくれたり、困っている人に何かしてあげたいなどの慈悲の心を大きくしてくれたりもする。


今日は久しぶりのお話会。
以前もお話会を企画してくださった中津市にあるカフェ「クラック」。
今回は夏にヨーロッパに行って見て感じたことを中心に、話ができたらと思っている。

このブログを読んで下さっている方、ぼくのトークに参加したことがある方ならだいたい分かると思うが、人前で話をする機会を頂いた時にぼくは自らの生い立ち(ルーツ)を中心に話す。ルーツといっても、さかのぼるのはだいたいひいお爺ちゃんくらいまで。
アメリカ国籍を持ったぼくが、日本で生まれ育ち、アメリカや南米で過ごしながら、どのようなことに葛藤を感じ、どのような世界観に希望を感じるのか、そんなことを聞き手のみなさんと共有させてもらっている。

同時にぼくにとって質疑応答の時間もとても大事な時間。話を聞いて、疑問に思ったこと、異議を唱えたいこと、もっと深く話し合いたいこと、それらをすくいあげ皆で言葉にしていく。一方的な話で得る情報は時がたてば次第にうすれていく。しかし、自らもその議論に加わり、頭をひねらせ、人の意見に耳を傾けたアクティブな時間は自分のものになる。だからこそ、ぼくにとってトークは場づくりでもある。
これからもいろいろなところで場づくりをしていきたい。